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入道雲、クリアさ、眼鏡、遺霊
昼の帰り道、空には入道雲が低く点在し、それがとても綺麗に見え、しばらくの間眺めていた。眼鏡を掛けていたこともあり、入道雲の細部の輪郭まではっきり見ることができ、澄んだ青の空と白い雲のコントラストが美しかった。雲の際は陽を受けて輝き、雲の底部は反射光を受けながら、量の分だけ段々と空色に淡く染まっている。
キャンバスに臨む時もこの自然の見え方を大切にしたいな、そして眼鏡はクリアな観察に必要だなとも改めて感じさせられる、そんな身体が冴える景色だった。
この雲は先日の台風で吸われずに残って流されてきた雲なのだろうか。盆過ぎの雲は帰路の遺霊のようにも感じ、ゆるやかに各々帰るところのようだった。
Yuuki TanakaさんのThe Rotating Mudを見て
Yuuki TanakaさんのThe Rotating Mud、回る粘土の作品を先日動画で見る。
パフォーマンスであり、彫刻でもある作品で、僕にとって刺激的な作品だった。
地球のろくろを回す。一人の人間が大地を受け止める。それがこの作品に受けた印象だ。
地中から採取した自身の身をはるかに超える大量の粘土を回すが、形は表面が平されるのみで、ビデオで見ると人の存在の小ささや儚さを感じさせられる。しかし実際の会場の空気を考えると、画面越しで見るものとは異なった様相だったのではないだろうか。
自分の身の丈より大きい巨塊に体全体で立ち向かっていく。体中の水分が粘土に奪われ、体力の限界に近づきながらも立ち向かい続けていく。その姿に、発する熱気に、鑑賞者は胸を熱くさせられそうだ。画面越しから様々な想像が膨らむ。
僕の身体は刺激され、その空気を吸いたい、そういう気持ちにさせられる作品だった。
凹凸を超えて
今取り掛かっている油絵を始めて3ヶ月程経つ。大きさはF60でそれほど大きくない。時間を掛け過ぎていると思うが、今年は2013年のテイクツーであるのだから、今はそれが必要なのだろう。キャンバスに向き合い、しばし記憶と現在の揺蕩う時の中に身を投げ込む。
時は一種の泥のようだ。そこから拾い上げた泥粘土でイメージを作っては壊し、そこからまた新たに作る。イメージの構築、崩壊、再構築の繰り返しで画面の絵の具は積層し、だいぶ凹凸が激しくなった。
この凹凸を超えていこう。